2019年8月下旬にUCC上島珈琲(株)農事調査室長の中平さんに ロタ島サバナ山(標高約500m)の山腹にあるアスアコド地区(標高約400m)のフォレストコーヒー自生地を 視察してもらいました。この自生地はその前年(2018年6月)にロタ島のDLNR(資源省:Department of Lands & Natural Resources)の スタッフが「ロタコーヒープロジェクト」の一環で、鬱蒼とした未踏のジャングルを調査中に 偶然発見したものです。この辺りは古代の森を彷彿させるような神秘的な雰囲気を漂わせています。
視察後、中平さんによると「コーヒーが自然を壊すのではなく、自然を護るためにそこにある。」と云う貴重な生態系が
ここアコアコドに存在していると云うことです。すなわち、コーヒーが森の若木を育て、その若木が巨木となってコーヒーを護ると云う。
やはりロタ島は不思議な魅力をもっていると改めて
認識しました。さらに、そんなフォレストコーヒーの生態系がアフリカや南米と云う遠方ではなく、日本に近いロタ島と云うのが嬉しい。
それにしても、これまで幾度となく熱帯の強烈な台風を生き延びてきたのですから、まさに奇跡のコーヒーと云えます。
中平さんのロタ島訪問の様子は以下の動画をご覧ください。
その後、9月に入り、ロタDLNRのスタッフがコーヒー実の成熟度合いをチェックするため、時々、 アスアコドへ分け入りました。しかし、それには大問題があって、車両が途中までしか行くことができず、 その後は20分ほどジャングルトレイルを、背丈ほどの草木をカットしながら徒歩で行かねばなりません。 幾らヘビや有害動物がいないと云っても、簡単ではないと彼らは言います。それ故、今日まで久しく、 人知れず、手付かずの貴重な生態系が残っていたのです。因みに、我々が視察に行く時は、 DLNRのスタッフが前もって道を切り開いてくれています。
10月なっても、アスアコドのコーヒー実は緑色のまま、片や、シナパル村の農場で栽培しているものはすでに赤くなって、 収穫できると云うのに、です。但し、農場と云っても栽培しているコーヒーは自分用の僅か数本程度です。アスアコドとはスケールが違います。 さらに、11月に入っても緑色のままで相変わらずの状態です。何事にも、おっとりしているロタの人たちもだんだん 不安に襲われ始めました。緑色の期間があまりにも長いので、アスアコドのコーヒー実はこのまま赤く熟せずに 腐ってしまうのではないかと。
そして、中平さんにそのへんの原因を尋ねて欲しいと云うことで、12月中旬にアスアコドのコーヒー実の写真を 送ってきました。よく見ると、一粒や二粒は薄く色づいていますが、12月中旬でも、やはり全体的には緑色のままです。 不安になるのも分かります。我々も不安でした。通常、コーヒー実は緑から3か月ほどで赤く成熟し、 収穫ができるようになると聞いていました。それなのにアスアコドは12月で7か月経っている計算になります。 通常の2倍以上の時間が経っていることになります。
中平さんの回答は「ジャングルが鬱蒼としているので、1日の日照時間の短いのが原因ではと。 熟成に時間がかかるのは味覚の方に影響(良い意味で)があるのではないかと期待できます。」と云うことでした。 赤くなるのが遅いと、そのぶん味や香りが良くなる可能性が高いと云うのは意外でした。これで我々のもやもやした不安が吹っ飛びました。
12月末になって、ようやく1本のコーヒー木に2〜3粒の赤い実を付けた木がちらほら目に付くようになったと云う。 コーヒー木は緑の実が一斉に赤く熟するのではなく、3か月ほどの時間をかけて、ランダムに緑から順々に赤く熟していくと云う。 すなわち、1本の木の収穫がすべて終わるのは3か月ほどの時間を要すると云うことです。
2019年12月、マリアナ諸島の歴史と文化に精通されている帝京大学の中山京子教授のアドバイスで、 日本の国会図書館にある「南洋群島」という文献を調べていて、偶然にも大発見がありました。
それは、アスアコドで見つかったフォレストコーヒーの自生地はハワイ島コナにあるコーヒー農園から、 太平洋戦争以前の日本統治時代に日本人(南洋珈琲株式会社)がロタ島へ豆を持ち込んで植えたもの。そして、 1945年に終戦になり、放置され、その後、野生化して人知れず生き残っていたものという可能性が限りなく高くなりました。
「南洋群島」にある海外発展案内書によると、 ハワイ島で財を成した実業家の住田多次郎氏が1918年にハワイ島から帰国し、 1926年に神戸で住田物産(株)と南洋珈琲(株)を設立。そして、この南洋珈琲(株)にはコナで長年コーヒー栽培に 従事していた人たちも参加したとなっています。加えて、戦前に海外へ移民し、 コーヒー栽培に従事した日本人とその社会に関する歴史研究の第一人者でいらっしゃる飯島真里子上智大学準教授の 論文「戦前日本人コーヒー栽培者のグローバル・ヒストリー」も参考にさせて頂きました。 因みに、住田物産(株)とは現在の(株)エムシーフーズの前身です。
そして、南洋珈琲(株)は、当時、日本の統治下にあったサイパンで、1929年に栽培面積200町歩(東京ドーム40個分)という 広大な土地で、栽培を始め、味香り共に高評価を得たとあります。さらに、ロタでも官地払い下げを受け、 栽培面積200町歩で近く進出する予定になっているとあり、 これらからアスアコドのフォレストコーヒーは 限りなくコナコーヒーの可能性が高いと推測できます。さらに、その後のUCC上島珈琲(株)によるDNA検査でも、 アスアコドのフォレストコーヒーはコナコーヒーと同じアラビカ種ティピカと判明しており、遺伝子的にも辻褄があいます。 因みに、南洋珈琲(株)は戦時中に南洋興発(株)に吸収され、消滅しています。
それでは、2018年5月に米国ワシントンDCにある米国国会図書館で見つかったスペイン文献(1879年著)に 書かれているロタコーヒーはどうなったのでしょうか?
この文献は97ページもあり、当時スペインが統治していたマリアナ諸島(グアム、ロタ、サイパン等々)の農業に 関して書かれており、当時のマリアナ諸島の責任者から本国のスペイン国王への収穫量報告書と考えられます。 この文献に書かれているスペイン文字は、その当時(大航海時代以降)の公用語だったガリシア地方の文字で 書かれているようで、スペイン本国でも、現在ではなかなか完璧な解読は難しいものがあります。因みに、 ガリシア地方とはスペイン北西部の大西洋に面した地域です。
そして、その文献によると、スペイン人が1771年にグアム島へコーヒーを持ち込んでからの様子が書いてあります。 そして、1879年当時にはグアム島中央部のアガット地区やアプラ地区ではそこそこのコーヒー豆の収穫があったとあります。 一方、ロタ島では、1855年頃に栽培が始まりました。 しかし、24年間に亘って栽培を続けてもなかなか収穫量が伸びなかった との記載があります。よって、 スペイン時代のロタ島でのコーヒー栽培はあまり上手くいかなかったのでは、と想像できます。 すなわち、当時のグアム島ほどの収穫量はなかったが、ロタ島でも栽培されていたという事実は確認できます。もちろん、現在も、 その生き残りはロタ島のどこかに点在していると思いますが、それほど多くないと想像できます。因みに、 現在のグアム島にはコーヒー木は皆無です。
2018年に米国でスペイン文献が見つかるまでは、我々もロタ島民もロタ島のコーヒーは戦前の日本統治時代に日本人が 持ち込んだものと思い込んでいました。なぜなら、今あるロタ島の全ての主要インフラ(村や道路や港湾等々)の礎は 日本統治時代の日本人が造ったものですから。しかし、このスペイン文献が見つかり、その中にロタ島でコーヒーを栽培したとの記載があったので、 スペイン人が持ち込んだものと考えを変えざるを得ませんでした。その後、2019年12月に日本の国会図書館で「南洋群島」の 資料が見つかり、紆余曲折を経て、やはり、アスアコドのコーヒー自生地は日本人がコーヒー農園として植えたものと確信しました。
現在、ロタ島にあるコーヒーには「アラビカ種Typica」と「アラビカ種East African Mix」との2種類の遺伝子が確認されています。 スペイン人が持ち込んだものは「アラビカ種East African Mix」と想像できます。これはシナパル村の農園で採取した検体の遺伝子です。 片や、アスアコドに自生しているフォレストコーヒーから採取した検体はコナコーヒーと同じ「アラビカ種Typica」の 遺伝子が検出されました。この事実からもアスアコドのコーヒーは南洋珈琲(株)がハワイ島のコナから持ち込んだものと考えられます。
2020年1月21日、ロタ島のDLNR署長デビットからからサイパン出張中の大西へアスアコドで初収穫されたフォレストコーヒーの 乾燥された殻付きの生豆約1sが送られてきました。これらは日本へ持ち帰り、UCC上島珈琲(株)で味や香り等々の品質検査をしてもらうための サンプルです。 約80年ぶりに人の手で収穫された貴重なコーヒー豆です。太古の森が護り育てたコーヒー、どんな味がするのだろう。 手の平を通して、強い生命力を感じます。
これらのコーヒー豆は、大西のサイパン滞在中に間に合うようにと2019年12月26日と30日と2020年1月3日の3日間に 赤くなり始めたものだけを一粒づつ先行して摘んで乾燥させたものです。その後、1月末位から成熟の遅いアスアコドのコーヒーも ようやく赤い実が増え、まもなく本格的に収穫作業に取り掛かれると連絡してきました。
これらを受取り、ずっしりとその重さを感じた時、ついにここまで辿り着くことができたか、と感慨深いものが ありました。 これまで何がたいへんだったかと云うと、アスアコドの価値を十分に理解できていないロタ島の人たちを、 また、何かに付けてお金がないからできないと愚図るロタ島の人たちを、遠く離れた日本から我々外国人が 背中を押し続け、先に進ませることでした。 でも、まあ、本当にいろいろありましたが、やっとここまで辿り着けたのだから 全ての苦労も許せます。もし、これが仕事だったら、こんなに忍耐と時間を要するしんどい事はできません。 何はともあれ、これで「ロタコーヒー農園復活プロジェクト」における我々KFCの役割はひと段落し、 ゴールが見えてきたと感じました。
帰国後の26日、さっそくこれらのコーヒー豆をカッピング(味や香りや品質の検査) をして頂くため、 UCC上島珈琲(株)の中平さんにお送りしました。どんな評価がでるのか、不安半分、期待半分です。とは言え、 この結果で今後の方向が決まります。
中平さんの評価にもよりますが、極小と云えども、ロタ島に新たにコーヒー生産地が生まれるのですから、 今後は彼ら自身の手で、アスアコドのフォレストコーヒー自生地を観光資源として利用するも良し、また、収穫したコーヒーは焙煎して、お土産として 観光客に販売するも良し、と思っています。
現在、ロタ政庁のキャピタルであるサイパン政府は2018年末から中国資本のカジノ絡みで前代未聞の財政難に 陥っています。それが原因で、サイパン島やロタ島の全ての公務員は1年以上給料の削減が続いています。当然、 デビットたちロタDLNRのスタッフも同じです。さらに、サイパン政府の財源枯渇が原因で、 DLNRサイパン本部からの予算がDNLRロタ支部へ下りて来ず、これもお金がないと云う原因の一つです。 サイパン島でもロタ島でも、カジノマネーで安易に一攫千金を夢見るよりも、かつてのように観光業を軸に農業や漁業で 汗を流し、地に足が付いた仕事をしないと先がないと感じています。
また、ロタ島の人たちはお金がないので、コーヒープロジェクトを事業化できないといつも云います。だから 投資をして欲しいと安易に言います。最初から体裁を整えないと仕事はできないと思っています。 投資にはしっかりしたリターンが付きものと云う概念は彼らにありません。過去、ホテルやゴルフ場、それに建設業やスーパーマーケットなど ロタ島に投資した企業で成功した事業は皆無です。だから、我々は一貫して投資はしないと伝えてあります。その代わり Donation(寄付)で可能な限り応援すると。最初からロタコーヒープロジェクトは長引く不況に喘ぐロタ島の経済再生の起爆剤と捉えていたので、 我々へのリターンは全く不要とも伝えてあります。
ロタ島では、昔から島外の投資で一攫千金を夢見がちですが、 このプロジェクトでは、ロタ島の身の丈に合ったやり方、すなわち、 「小さく産んで、大きく育てる」という地道な努力を学習して欲しいと願っています。今、 「コーヒー」と云う金脈を掘り当てたのだから、それができると思っています。
2019年9月、ロタコーヒープロジェクトに興味をもった東北大学大学院の学生が話を聞くため、 KFC本部の「成木の家」を 訪ねてきました。彼はアジアのコーヒー栽培に興味を持っており、その中でも将来ネパールのコーヒー栽培に係って 仕事をしたいと云うことでした。帰り際、我々が利益の追及をしていないことに対し、不思議に感じた様子で 「なぜ、儲けが出ないのに、KFCの皆さんはロタコーヒーにこれだけ一生懸命になれるんですか?」と云う 若者らしい素朴な質問をストレートに投げてきました。この手の質問は彼以外にも多々あります。それに対する 我々KFCの答えはいつもシンプルです。「遊びだから」です。そうは言っても、遊びも一生懸命になると、 楽しいだけでなく、労力やお金も必要で、それなりにしんどいものがあるとも伝えました。
2020/02/02 KFC記