南仏ニース〜伊フィレンツェの8日間【後半】
この日はジェノバ駅から電車による移動で始まった。自転車では走り難い交通量の多い道をカットしたり、走行距離の調整をしたりするのだ。
電車の旅もいいものだ。車窓からの眺めは最高だ。右手には地中海の絶景、左手には山腹に建つ洒落た街並みを楽しむことができる。
ツーリング出発点のラスべジア駅には昼前に到着した。皆の荷物を乗せたワゴン車はすでに駅前に到着していた。先ずはは斜塔で有名なピサを目指す。 行程ルートのほとんどは海岸沿いのフラットだ。
ラスべジア駅から走りだして、1時間ほど行った街道沿いのレストランで昼食を摂った。ピザの専門店だ。周囲は田園風景が広がっている。
地元では人気の店なのか、店内は大勢の客で混み合っていた。日本では見たこともないようなトッピングのピザがたくさんあった。種類にして、 30〜40種類はあったのでは・・。8等分してあるので、好きなものを3種類ほど選び、飲み物と一緒にオーダーする。
日本ではピザを食べる時は8等分して、手に持ってかぶり付くのが一般的だ。しかし、イタリアではステーキを食べるようにフォークとナイフで 一口サイズにカットして食べるのが一般的だ。この食べ方は、フランスやイギリスもそうだった。フォークとナイフもいいが、ピザは手に持って かぶり付く方が絶対に美味い。
昼食を終えて、走りだして間もなくこんもりとした森の中を通過した。その時、日本では考えられない衝撃的なモノを見てしまった。
それは、派手な下着姿の女性が道路沿いの木立の間から道路を向いて、イスに座っているのだ。最初、森の奥に家でもあって、それで日光浴でもしている のかなあ、と思った。ところが、そのような女性は一人でなく、一定の間隔をあけて何人もいるのだ。
何と、この森は車でピックアップしてくれる客を待つ売春婦が佇む森なのだ。昼間から堂々と、それも誰もが通る道路脇で、 こんな商売をしてもいいの?!
この森を抜けると、延々と続く真っすぐな海岸通りに出た。右手には大勢の海水浴客で賑わうビーチが点在していた。また、多くの地元の自転車乗りにも 出会った。単独でツーリングを楽しんでいる人、揃いのジャージを着て本気モードで走っている人たち、皆、楽しそうに見えた。眼と眼が合うとお互いに手を 挙げて挨拶を交わした。
午後4時頃、ピサの斜塔があるドーモ広場へ到着した。城壁で囲まれたドーモ広場には大勢の観光客で溢れかえっていた。欧米人、アラブ人、インド人、 アフリカ人、東洋人など人種もバラバラだ。
しばらくは観光タイムだ。ピサの斜塔に関する知識は学校の教科書で見たことがあるくらいだ。目の当たりにすると、思っていたより傾いているように 見える。今にも倒れそうだ。倒れないのが不思議だ。と思っていると、近年に倒壊を防ぐ工事を行ったそうだ。それで納得だ。
ここで面白いのは観光客のほとんどが遠近の錯覚を利用して、両手を天にかざし、斜塔を支えているポーズを取って、写真に収めていることだ。人種は違えども、 やることは皆同じだ。
帰り際、ドーモ広場の入口で、警備担当の警察官に出会った。普段、通りで見かけた警察官と違って、ピカピカの制服を着て、ちょっと違って見える。 世界に冠たる観光地の警備だからだろうか。
よく見ると、その警察官も自転車乗りらしく、手首にライブストロング(イエローリング)を付けている。
そして、「どこから来たの?」とか、兼松さんのピナレロを見て「それ、イタリアの自転車だよ」等などフレンドリーに話しかけて来た。
最後に、手首をチラッと見せて、自分も自転車乗りだということをアッピールしていた。
日本ではランスの引退と同時にライブストロング熱は冷めたようだが、ヨーロッパでの人気はまだまだ根強いものがある。
一般の自転車乗りだけでなく、多くの一流の選手たちもレース中だけでなく、普段も付けて走っている。
それは、彼らがライブストロング本来の目的である「ガン撲滅運動」に賛同しているからだろう。決して一過性ブームとは捉えていないようだ。 持っている人は、外国へ行く時、付けて行った方が連帯感が生まれていいかも・・。
午後7時頃、ピサ市街にある宿泊ホテルに到着した。ピサの斜塔からは10分ほどの近距離だった。ドーモ広場にはあれほどたくさんの 観光客がいたのに、街自体は至って静かだ。この日の走行距離は80km強だ。
前日までで地中海沿いのルートは終わった。この日からはトスカーナ地方の田園風景の中を走り抜けるルートで、観光しながら、この地方の中心都市フィレンツェを 目指す。
途中、観光地であるルッカの旧市街に立ち寄った。その街は周囲を城壁に囲まれ、500年ほど昔の中世の街並みがそのまま 残っている。そして、そこの住民たちは普通に現在の生活を送っているのだ。旧市街の多いイタリアでは珍しいことではないそうだ。
それにしても、500年前の家屋に住むなんて・・・、日本なら織田信長の時代・・? これは石造りの建物だからできることであって、 日本のような木造家屋では、そんな昔の街並みは存在し得ない。
その後、しばらく走り、通りすがりの小さな村の小洒落たレストランで昼食を摂った。
ボンゴレのパスタをオーダーしたところ、 パスタが見えないほどたくさんのアサリが載って出て来たのには驚いた。そして、アサリの貝殻入れも付いて出てくるのだ。イタリアでは、 どこのボンゴレパスタもこうなんだろうか。美味かった。
昼食は時間の節約もあり、素早く簡単に食べることができるピザかパスタで、初日からずっと済ませて来た。どこも行き当たりばったりの店だが、 味に関しては、ハズレは1回もなかった。
昼食を終え、次の目的地であるヴィンチに向かった。ヴィンチはレオナルド・ダヴィンチ生誕の地として有名なところだ。出発して 1時間も走らない内に両側がひらけた2車線の広い道に出た。といっても、田園地帯を貫いて延びている交通量の少ない田舎道だ。
広い2車線道路に入って、すぐに最後尾の2人の姿が見えなくなっているのに気が付いた。
ゆっくり走っていたし、長閑な田舎の道、迷うような所はなかったはずだが・・、どこで千切れたのだろう? 日本なら心配はいらないが、 ここイタリアだとちょっと心配だ。
直ちに、伴走のワゴン車に来た道を逆走して捜索してもらった。その他の人は動かず、 その場で待つことにした。この時、運悪く、小雨が降ってきたので、道路から少し奥まった大樹の下で待った。その間、皆ではぐれそうなケースを 想定しながら待っていた。きっと、はぐれた2人はもっと心細いことだろう。
しばらくして、ワゴン車が戻ってきた。道路上に2人の姿はないと云う。
もし、ルートから外れてしまっていれば、我々だけで見つけるのは非常に 困難になる。最悪、今日中に見つからないこともあり得る。それに、彼らの荷物やパスポートはワゴン車の中だ。一瞬に、皆の頭の中に最悪の シナリオが広がった。
1人で運転しながら捜すと云うのは難しいものだ。2つの眼より4つに眼とういことで、大西が助手席に乗り込んで、再度、ルート上を捜すことにした。 時間が経つと、それだけ見つかり難くなるから急ぐ方がいい。
前方は運転手に任せ、助手席から道路の左右の風景の中を注意深く捜すことにした。5分ほど走ったその時、道路から少し奥まった所にある 小さな店の前にヘルメットを被った人影がチラッと見えた。
「あれだ、いた!」。近づいて、声をかけ、ワゴン車の後を付いてくるように伝え、 皆の所へ戻った。彼らも我々を捜していたのだろう。我々以上に安堵の色が見て取れた。
はぐれた原因は意外なものだった。2車線道路を横切っていた踏切で、運悪く遮断機が下りてしまったと云う。
まさか、そんな事情だったとは、 誰も想像だにしていなかった。なぜなら、その踏切は単線で、粗末で、廃線のような代物だったからだ。まさか、そこで電車と遭遇するなんて・・である。 何はともあれ、無事でよかった。
一寸先は闇、何が起こるか分からないものだと思い、改めて気を引きしめた。その後、先を急いだ。
トスカーナ地方の中でも、ルッカからヴィンチまでのルートは絵のような田園風景が続き、気持ちよく走れた。
左右の小高い丘の斜面には広大なブドウ畑が広がり、丘の上にはシャト―と呼ばれる石造りのワイン醸造所が建っている。この時季、新緑のブドウの葉が 目に鮮やかだ。
また、ブドウ畑は日本と違って、棚はなく、地面からまっすぐに伸びて、人の背丈ほどに成長している。これが有名なトスカーナ産の ワインになるのだろう。
ヴィンチ村に着くと、小雨が降って来た。この日は小雨が降ったり止んだりしていた。
さすがダ・ヴィンチ生誕の地、お祭りのような雰囲気で大勢の観光客が訪れていた。 道端には観光客相手のチーズやソーセージを売る屋台が並んでいた。
しばらく観光タイムとなったので、お決まりの観光コースを観て回った。ダ・ヴィンチ生誕の記念館は小高い丘の上にあり、 バイクシューズでの石畳の上り下りはちょっと苦労させられた。
それにしても、 昨日のピサの斜塔と言い、今日のダ・ビンチ生誕の地と言い、実際に自分が訪れることになろうとは、ちょっと前まで想像だにできなかったことだ。 人生、何が起こるか分からないものだ。
この日は予定よりもかなり遅れていたので、自転車でフィレンツェに辿り着くのは困難と判断。急きょ、鉄道を使うことにし、 ヴィンチの最寄りの鉄道駅を目指すことになった。
午後5時頃に目的のエンポリ駅に到着した。走行距離は約100kmだ。しかし、運悪く、乗れる電車が来るまで 相当待たされた。
そんなこんなでフィレンツェ駅には午後7時頃に到着した。そして、ホテルを探したが、駅の近くにあるはずのホテルがなかなか 見つからない。
人通りの多い道を1時間ほど自転車を押しながらうろうろ捜し回った。通りの石畳は摩耗が激しく、とても自転車に乗れる状態ではない。
ようやく8時頃にホテルにチェックインできた。このホテル、フィレンツェにありながら、名称は「ホテル・パリ」と云う。パリを名乗るだけあって、 とても重厚な石造りのホテルだ。さすが、かつてのフィレンツェ王国の首都だったことはある。
その後、しばらくして、エンポリ駅からのワゴン車もホテル・パリへ到着した。近くまでは早くに到着していたが、我々の到着を 待ってホテル玄関にやって来たと云う。
それにしても、こんな迷路のような細い道を、よく辿りつけたものだ。このドライバーは優秀だった。期待通り、 着実に伴走してくれた。運転以外にも、道案内や捜索やらもこなしてくれた。感謝だ!因みに、このドライバーはニースに住む日本人女性だ。
一休みして、皆で街中のレストランへ夕食を食べに行った。そして、レストランを出たのは11時過ぎだった。遅いので、夜の街歩きは翌日に持ち越しだ。 明日もフィレンツェに泊ることになっている。世界遺産のフィレンツェ歴史地区には教会や大聖堂が数多くあり、どんな所か、明日が楽しみだ。
この日の午前中はフィレンツェ近郊の観光を兼ねてのんびりとポタリングだ。そして、午後は各自自由行動となる予定だ。このツアーで初めてとなる 自由行動だ。
皆揃って、8時にホテルを出発した。この日は観光で歩くことが多いだろうと思い、バイクシューズは止め、トレランシューズで 出掛けることにした。
最初は、北へ10kmほど行った標高300mほどの小高い丘の上にあるフィエ―ゾレという街だ。ここにはローマ時代の遺跡が多く 点在している所として有名だ。
そこへ行くためには、エズの上り坂に次ぐ、キツイ坂を上らなくてはならない。でも、上るにつれてフィレンツェの街並みが眼下に見えて来る。 周囲の緑にオレンジ色の屋根が映え、イタリアらしい景色だ。皆、時々、立ち止まってはシャッターを押している。
よく見ると、郊外には青いオリーブ畑があちこちに見える。オリーブオイルはイタリアの食卓には欠かせないものだ。
因みに、イタリアのレストランでは テーブルの上に塩と酢とオリーブオイルの3点が決まって置いてある。日本で云うソースや醤油は見ることはない。生粋の日本人としては、時には醤油が欲しくなる。
丘の上に着くと、大きな広場があった。この辺り一帯がローマ時代の遺跡を中心とした観光地だ。とは言っても、 観光客は少なく、静かな雰囲気の落ち着ける場所だ。当時のままの石造りの円形劇場や公衆浴場などをゆっくり観ることができた。
遺跡を一通り見学した後、広場にあるレストランの日当たりのよいテラスで昼食を摂った。青空の下、澄んだ空気と柔らかい風が 心地良い。
この時はピザとパスタ以外のものにチャレンジしようと思い、メニューを見たが良く分からない。値段で決めることにし、10ユーロ前後の料理と瓶入り スパークリング・ウォーターをオーダーした。
しばらくして、出されたものは、スライスしたフランスパンを焼いて、その上に生のトマトとオリーブの実とアンチョビとをトッピングして、 酢とオリーブオイルをかけた簡単な料理だった。見た目には綺麗なんだが、味は・・・よく分からない。やはり、パスタにしておけば良かった。
次は下界へ降りて、フィレンツェを流れるアルノ川へ出た。この川沿いの遊歩道をポタリングすることになっていた。
この川へはフィレンツェ歴史地区を 通り抜けて行けねばならないので、人や車が多く、大変だった。が、ようやく辿り着いた。
そこそこの大きな川で、カヌーやアウトリガーの練習をしていた。また、河川敷では日光浴を楽しんでいる人たちもいた。 しかし、川沿いの遊歩道は、予想に反してサイクリング向きの楽しい道ではなかった。
そんな訳でフィレンツェ近郊のポタリングは、ここでお終いにして、これ以後は自由行動となった。 この日の走行距離は約20kmだ。
ホテルへ直行し、自転車をホテルに預けた。そして、各自バラバラに世界遺産であるフィレンツェ歴史地区へ地図を片手に繰り出した。 世界遺産と名の付く所は初めてだ。どんなところだろう。
ところが、街の造りが迷路のようで、容易に思う所へ辿り着けない。その上、どこの道も観光客でごった返し、歩きづらい。
我々と同じく、道行く大勢の観光客も地図を 片手に苦戦苦闘している様子だった。皆、外国からの観光客のようだ。とにかく人種が雑多なのには驚く。
さすが、ルネッサンス文化が花開い都と言われるだけあって、立派な大聖堂や教会、それに石畳の広場等などが多く、 半日ではとても観て回れない。
それに、どこへ言っても、歴史的な建造物の前には人、人、人だ。巨大なドームが特徴の大聖堂の前には入館を待つ観光客が 300mほど列をなしている。
これを見て、観光する気が一気に失せてしまった。並んでいる時間がもったいない。隣の原さんも同感だと云う。
イタリア国内の観光地に、日々、これだけ大勢の観光客が訪れるのなら、彼らから何がしかの名目で税金を取れば、緊急の課題である財政難も多少は 和らぐのでは、と考えしてしまう。
それでは買い物をしようということになった。そう言えば、初日に石鹸を買っただけで、その後、おカネを全く使っていない。 幾ら自転車の旅と言っても、土産もちょっとは買いたいし、自分の物も買いたいし・・。
ところが、この地区には我々向きの手頃なモノを売っていないのだ。 ウン十万円もするブランド品など高価なものならたくさんある。しかし、そんなものは全く興味がない。
あとこち探し回って、やっと見つけたのが万年筆やボールペンなどの筆記用具とフェラーリの精巧なミニチュアカーを売っている小さな店だ。
2坪ほどの店内には、 客は一人もいない。ここに決めた。日本では見かけないようなクラシックなデザインのペンがいろいろ飾られていた。
店主曰く、商業や金融の中心地であったフィレンツェでは、その当時から職人の手によって上質のペンが作られていたそうだ。その名残で、 今でもペンを作る職人がいると云う。この店にあるのはそれだという。
よし、それならここで一気に片付けようと思い、2人して、10ユーロくらいのお手頃な ボールペンを全部買い占めてしまった。もちろん、ちょっとした万年筆も買った。そして、まっ赤なクラシック・フェラーリも一台。
イタリア人はコーヒー好きらしく、街角には至る所にカフェがある。それも、ちょっと立ち寄ってみたくなるようなお洒落な店構えだ。
そんな訳で、こちらに来てからと云うもの、時間のある時はカフェで好きなコーヒー(エスプレッソ)を飲んでいた。日本のコーヒーより 濃く、飲みなれると、これがまた美味いのだ。また、エスプレッソに泡立てたミルクを加えたカプティーノも美味い。
それで、自分用にイタリアン・デザインの洒落たエスプレッソ・マシンを購入することにした。マシンと言っても、荷物にならないよう1人用の小さいものだ。
ここイタリアではエスプレッソは日常品のため、街中に当然のごとくエスプレッソ・マシン専門店がある。店内には、デザインは だいたい統一されていいるが、 赤、黒、黄、白色など色合いは豊富だった。そこで黒色のマシンと、鮮やかなフェラーリ・レッドのエスプレッソ用カップを買った。
ここイタリアでは、コーヒーと云えばエスプレッソのこと。
はっきり言って、それ以外の種類のコーヒーは淹れられないのだ。 すなわち、店にはエスプレッソ・マシンしか設置していないのだ。たぶん、フランスもそうだ。
だから、アメリカンを注文するとエスプレッソにお湯を加えて 薄めるだけだ。余りにも簡単で、笑ってしまう。
この日の夕食が皆で食べる最後の晩餐になる。そんな訳で、ちょっとしたレストランへ繰り出した。地元トスカーナ産のワイン、ステーキ、パスタ等など 美味しいものをたくさん食べ、しゃべり、楽しいひと時を過ごした。思えば、あっという間の1週間だった。
フィレンツェで泊ったホテル・パリが建物としては最も重厚で豪華だ。廊下や部屋にも当時の面影がしのばれる。きっとローマ時代の 建物をホテルに改造したのだろう。
しかし、スタッフの質は良くない。感じが悪い。
我々がバイクジャージにヘルメット姿でうろうろしているからだろうか? 胡散臭い東洋人の一団と見下しているようだ。 明らかに東洋人を蔑視していると感じる。観光で喰っているフィレンツェでさえ、こうなのは残念だ。
そんなフロントとひと悶着があった。それは自転車を部屋へ持ち込んではいけないと言う。フロント前の荷物室に置けと云う。人によっては、 いつも傍に置いておきたい人もいる。汚れていないし、 ウン十万円もする高価なロードバイクだから当然だ。しかし、ここのフロントにはそんな理屈は通らない。
そんなら、と云うことで、前後ホイールとフレームとにバラし、単に手荷物として持ち込んでやった。 やはり、フロントは自転車とは気付かなかった。
午前中は各自自由行動だ。昼にホテルをチェックアウトして、2時にフィレンツェにある地方空港へ行く。ホテルから空港まではタクシーに分乗して 行った。
急いでくれと行った訳ではないのに、そのタクシーの飛ばすこと、飛ばすこと。
交通量の多い道だけど、前が少し空けば、 アクセル全開で行く。強引に追い越しはする。割り込みはする。クラクションはバンバン鳴らす。他の車にぶつぶつ罵声を浴びせる。歩道へ乗り上げて走る。
最初、唖然とはしたが、恐怖感はない。それなりのドライビングテクニックがなければ、こんな運転はできない。それにしても小型車プジョーの反応も クイックだ。最後まで楽しませてくれた。あっという間の30分、フィレンツェ空港へ着いた。
この運ちゃん、きっと毎日、こんな格闘技のような運転をしているのだろう。このタクシーだけでなく、お国柄か、この地方のタクシーは皆よく飛ばす。
そこから経由地パリへ飛び、午後7時半のJAL便で成田へ帰国した。エア・フランスとJALのコードシェア便のため、帰りの機材はJAL機だった。 機内に入ると、日本人アテンダント、日本語の機内誌等など、すでに日本の空気が漂っていた。
18日(水)午後2時半頃に成田空港に到着した。 覚悟はしていたが、帰国後、やはり、3日間ほどは時差ボケで苦しめられた。
1週間のイタリア滞在中、毎晩のようにホテルのTVはジロ・デ・イタリアの速報を流していた。
しかし、東日本大震災やTSUNAMI、 それにフクシマに触れるニュースは全く目にすることはなかった。これにはちょっと意外だった。
でも、遠く離れたヨーロッパから見れば、我々が思うほど、 日本に意識がないのだ。立場が違えば、日本も同じだろう。お互い、他国のことよりも、我が身に降りかかる火の粉を払うのにいっぱい一杯だ。
滞在中、時に、不快な人種差別を感じた。確かに、フランス人やイタリア人は男女ともに容姿はカッコいい。我々日本人が逆立ちしても敵わないと 思う。街中を歩いている人でも日本へ来れば、立派にモデルが務まるだろう。しかし、それだからと言って、東洋人を蔑視しても良いという理由にはならない。
もし、我々が自転車ではなく、富の象徴フェラーリに乗っていれば、もみ手で近いづいて来るんだろう。どこの国でも人種差別はある。しかし、 イタリアはその感情をストレートに出す人が、特に多いように感じた。
色々あったが、この旅で日本の日常では経験できないような良い刺激をたくさん受けた。
日本にはアメリカ文化(考え方やファッションやモノ)は たくさん入って来ているが、ヨーロッパのそれはまだまだ少ないと感じる。
お金では買えない貴重なものを得た。腐りかけていた脳ミソも息を吹き返したようだ。
電車やバスではなく、自転車のスローな旅だからこそ得るものも多かった。おカネや休暇の工面はあったが、思い切って、 イタリア・ツーリングに来て良かった。
また、この旅で得た貴重な経験を、今後の東京ヒルクライムシリーズの運営に 何らかの形でフィードバックさせたい。
最後に、添乗員をやってくれた武藤さんに感謝だ。
昼間はGPSを見ながらナビゲーター役を務めてくれた。そして、ホテルへ着くと、すぐに夜のレストランを 探して来てくれる等など、本当によくやってくれた。
仕事とはいえ、武藤さんの働きがなければ、これほどストレスなく、楽しい旅になっていなかっただろう。 改めて、感謝!
それと、8日間もの長い間、一緒に旅をして下さった皆さん、お疲れさまでした。そして、ありがとうございました。
■写真一覧はこちら
・写真一覧提供:兼松宏明
・写真提供:兼松宏明 杉本登 原広司