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1521年、不幸にもスペイン国王にスポンサードされたポルトガル人探検家マジェランにグアム島が発見されたことによって、その後約300年に及ぶスペイン統治が始まることになる。これらの諸島の名称は当時のスペイン皇后マリア・アンナから採って「マリアナ」と呼ばれるようになった。そして、この時彼らが持ち込んだ梅毒や結核などの病気とキリスト教に改宗しないという理由による虐殺とで98%(10万人から2千人に)も人口が激減した。その後、人口を回復させるため、混血政策を積極的に推し進めた。その結果、現在のチャモロ人(マリアナ固有の人種)は全て混血で、純血は存在しない。その当時の名残として、スペイン名のサントスやカルボやカマチョの姓を持つチャモロが多い。
1898年、米西戦争に敗れて、ドイツにこれらの諸島を売却、結果、その後15年間のドイツ時代が始まる。ドイツ人の合理的な統治方法とノンビリしたチャモロの性格がかみ合わず、結局争いや虐殺が絶えなかった。
1914年、第一次世界大戦勃発に乗じて日本が無血占領する。第二次世界大戦で米国に敗れるまで約30年間「南洋群島」の一部として日本統治時代が始まる。この間、約8万人の日本人(当時のチャモロ人口は約5万人)が移住して、砂糖きびを栽培し、同時に農業、産業、文化を教え、また、学校を造ったりして日本国内と同様の教育を施した。このようにチャモロ人を3等国民(当時2等国民は沖縄、4等国民は中国、朝鮮)と位置付け比較的大切に扱い、弾圧統治を行ったスペインやドイツと全く異なった政策で植民地化していった。この同化政策が今のチャモロ人の「日本人びいき気質」に繋がっていると言える。そして、今でも年配の人は流暢な日本語を話せる人が多い。また、例えば、現在のこれらの島の道路は日本時代の砂糖きび運搬用機関車レールを引き剥がした跡地を利用して造ってある。
第二次世界大戦終結後、北マリアナ諸島の統治権は米海軍の委ねられ、1947年に国連信託統治領として承認された。その後、地元のチャモロ人とカロリニアン人は、1976年に米国と政治的に統合して自治領となることを選択した。1978年には、憲法の施行と同時に「北マリアナ諸島コモンウェルス(U.S.Commonwealth)」という名称で、米国の自治領になった。そして、自治政府が発足し、北マリアナ諸島コモンウェルス初の知事が、二院制連邦議会とともに誕生した。1986年に北マリアナの地元チャモロとカロリニアンの人々は、米国市民権を獲得したのである。
現在、北マリアナ諸島の政治ステイタスはアメリカの自治領(U.S.Commonwealth)という形を採っている。これは外交と防衛に間する権限は全て米国にあり、固有の住民は米国籍であり、医療・教育等は米国の制度に守られているが、出入国管理と労働法は米国の法律に縛られないというものである。それは米国の領土のような、また、独立国のようなユニークな存在である。
政治システムは米国と同様で二院制(上院・下院)であり、2大政党の共和党と民主党を中心に構成されている。米国大統領に当るのが知事であり、知事にほとんどの権力が集中している。その選挙は4年毎に行われる。現在(2002年)のJ.N.ババウタ知事は共和党、ロタ島市長のB.T.マングロニャも共和党、テニアン島市長のF.M.ボルハは民主党である。両島の市長も其々の島では絶大な権力を与えられている。また、駐米代表も共和党である。駐米代表とはワシントンに駐在して、北マリアナの利益のために米国政府や上下両院と折衝したり、ロビー活動をしたりする非常に重要な官職である。
主な産業は観光業(45%)と衣料製造業(35%)であり、これらで政府歳入の80%を支えている。衣料製造業が北マリアナの主産業であり、その米国への輸出量が米本土の同業者をも圧迫しているほどである、ということは余り知られていない。クリントン政権は、米本土の衣料業界を守るため、マリアナ地域に入ってくる低賃金の労働力にストップをかけようと、北マリアナ政府から出入国管理権を取上げてしまおうとしたが、ワシントンにおける北マリアナ政府の必至のロビー活動で廃案となった経緯がある。
北マリアナ諸島の人口は現在約8万人で約60%が外国人である。これは出稼ぎ労働者が非常に多いということを意味している。原因はチャモロ人の絶対人口数が少ないので、労働力確保のためである。ホテルやレストランの観光業ではフィリピン人を、衣料製造業では中国人を主に雇用している。また、一般チャモロ家庭においても農場(ファーム)の労働力用にバングラディシュ人を、家事用メイドにフィリピン人を雇っていることが多い。これら北マリアナの産業を支えている低賃金の労働力はチャモロの手中にある出入国管理権と労働法に起因している。そして、その根源にはこの地域が米ドル圏であるということである。
経済に関しては、マリアナ地域は日本や韓国の経済圏に属すると言っても過言ではない。1997年の韓国金融危機や日本の長引く景気低迷による観光客の減少、その結果、観光業を核とするマリアナ地域の経済状態は非常に悪くなった。民間のみならず政府への税収もかなり落ち込んでいる。さらに、2001年9月11日のNYテロが原因で、ブッシュ政権は北マリアナ政府への補助金を大幅にカットしてきた。このような状態では、日本の景気が回復する時まで、マリアナ地域の経済状態がよくなるとは考え難い。
観光産業の歩み
1964年に日本の海外旅行が自由化された。これが北マリアナ諸島観光産業の始まりである。と云っても、直ちに日本人観光客がサイパンを訪れた訳ではない。1970年代に入って、サイパン観光サービス会社などができ、徐々に日本から観光客が訪れ始めた。しかし、この頃は1ドルが360円の時代で、海外旅行は高嶺の花だった。1980年代になると、日本の好景気を背景に観光客が増えていった。
1985年の「プラザ合意」以降の急激な円高は、日本企業の国際競争力を低下させたが、反面、海外旅行は身近なものになり、企業は海外投資がしやすくなった。その結果、それまでサイパンにあったアパートのような貧弱な建物のホテル(例えば、第一ホテル/現フィエスタ・リゾート&スパなど)は、日本の投資により立派な新しいホテルに建て替えられた。さらに、新規に日本投資が入って大きなホテルがたくさん建てられた。その結果、北マリアナ諸島にもたくさんの日本人観光客が訪れるようになり、島の経済も急激に発展し、道路の舗装化や水道や電気と云ったインフラの整備も進んだ。
1989年に韓国が海外旅行を自由化にした。それ以前の北マリアナ諸島来島者は日本人観光客ばかりであったが、徐々に韓国人旅行者も訪れるようになった。その後、韓国の経済発展と共に韓国人観光客が増えていった。その結果、当然の如く、韓国からも投資が入るようになり、韓国資本の大規模なホテル(リビエラ・ホテル等々)建設がサイパン島の彼方此方で始まった。ところが、突然、1997年末に韓国が通貨危機に陥り、韓国からの観光客はピタッとゼロになった。さらに、悪いことが起こった。その時、建設中の韓国資本ホテルも資金不足から建設工事途中で投げ出して帰ってしまった。その残骸がサイパン国際空港の前にある幽霊ビルのようなセメント剥き出しの建物である。その後、通貨危機が終わった2000年頃から徐々に韓国人観光客が再訪するようになってきた。
また、近年、中国の影響も無視できない。1997年の香港返還を機に、1998年にテニアン・ダイナスティ・ホテル&カジノという香港資本の巨大なホテルがテニアンに完成した。そして、1997年に中国も海外旅行を自由化した。しかし、当初は中国からの観光局は非常に少なかったが、その後、急激な経済発展を背景に、広州等々の比較的裕福な沿岸部からツアーを組んで団体で訪れるようになってきた。しかし、その殆どは、ビザの関係もあって、テニアン島の香港資本のダイナスティ・ホテル泊である。
最近(2006年2月)目立つのは、世界的なオイル・マネーの恩恵が北マリアナ諸島にも及び始めていることである。それは、近年の原油高で生活レベルが向上した産油国ロシアからの観光客の来島である。それも、全観光客数の10〜20%も占めるようになった。しかし、ロシアといってもモスクワではなく、ナホトカやハバロフスクと云った比較的マリアナに近い極東地域からの来島である。原油の高騰が始まる以前はロシアからの観光客はなかった。
また、アジアの経済情勢も明確に影響している。近年の傾向として、日本資本のホテル(フィエスタ・リゾート&スパ/旧第一ホテル、サイパン・ワールド・リゾート/旧ダイヤモンド・ホテル、ハファダイ・ビーチ・ホテル等々)が韓国資本や中国資本に買収され、日本の投資は北マリアナ諸島から引き上げる傾向にある。2005年10月にはJALも撤退した。これらは全て日本経済の長引く低迷に加え、中国や韓国経済の台頭によるものである。
市民レベルのチャモロ人とアメリカ人との関係は、表面上はどうあれ、良好とは言い難い。アメリカ人はこの地域を自分達の植民地のように考えており、チャモロ人を下に見ている。それを常に感じているチャモロ人は、ここは昔から自分達の島であり、アメリカ人をよそ者と考え、事ある毎に「この島から出て行け」と言う。例えば、アメリカ人が大勢集まるレストランにはチャモロ人は決して近づこうとはしない。「America is #1」と思い込んでいるアメリカ人の方に問題があるように思える。
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