南の島パラオ紀行
現地調査の旅

■突然の依頼パラオで唯一のビーチ
3月上旬に駐日パラオ大使館とパシフィック・ミクロネシア・ツアーズ(PMTと略す。JTBグループのミクロネシア担当部門)からパラオでスポーツイベントをやって欲しいという依頼があった。我々KFCがマリアナ諸島(ロタ、テニアン、サイパン、グアムを指す)でやっているようなスタイルの大会を希望とのこと。すでにKFCのマリアナでの活動に関してはよくご存知だった。

と言われても、そんな簡単にはスポーツイベントはできない。イベントをひとつ立ち上げるのは傍目で見るほど簡単なことではい。たいへんなエネルギーと時間、それにお金もかかる。中でも、最も神経を使うのが参加者の安全確保である。この部分に少しでも不安があるとできない。だから、もしやるとすれば、パラオ側の警察や病院を含めたマン・パワー等々の協力が必要不可欠になる。

そこでパラオ側の気持ちの度合いを直接確かめるべく、新宿にある駐日パラオ大使館を訪ねた。大使が本国帰国中で不在だったため、公使のピーター・アデルバイさんにお会いすることになった。

ピーターさんはスポーツイベント開催に非常に前向きで、パラオ政府挙げてバックアップするので、ぜひ、パラオでやって欲しいということだった。以前から、51.5タイプの半分の距離のMTBトライアスロンはやっていたが、今は立ち消え状態だとのこと。また、本格的なオーシャンスイム・レースはやったことがないと。パラオでもマリアナ諸島で行なわれているような大会を望んでいるとのことだった。


週末、ビーチで遊ぶパラオ人のファミリーかつて、大西はグアム島でグアム在住のパラオ人やグアム在住のパラオ人コミュニティに非常にお世話になったことがある。今、マリアナ諸島で大会を開催し、また、マリアナの人たちと良好な関係を保っていることができるのも、グアム在住パラオ人たちに多くのことを教えてもらったお陰だと思っている。それらは学校では決して学ぶことができない実体験に基づく生の近代史とも言える貴重な体験だった。

そんな彼らに今も大きな恩義を感じている。元々そんな素地があり、そして、今、ピーターさんの熱意をみると、パラオからの依頼は「無下に断れないな」という気持ちになった。しかし、今はこれ以上大会数を増やしたくないと言う気持ちも強かった。心の中で迷っていた。とにかく、下見には行ってみることにした。

大会を作るためには、パラオと云う島が何か心に響くモノがなければならない。ロケーションでも、そこに住む人たちでもいい・・・感じるものがあって、直感で頭に中で瞬時にレース全体の完全なイメージが浮かび上がってこなければ、大会はできない。実際に行ってみて、そこでの直感に従うことにした。



■4月21日(土)南の島パラオへ
映画のワンシーンのような桟橋、波がなく静かな海だ。開催の可能性を探るべく、現地調査のため、フィリピンの東側にあるパラオ共和国へ行くことになった。我々の訪問に先立って、4日間という短い間に十分な調査ができるように、駐日パラオ大使館やPMTから現地パラオの関係各所へ連絡や根回しがされていた。これは非常に有難がった。

パラオは1994年にアメリカと自主独立協定を結び、正式に独立した。古くはヨーロッパ人達との交易活動から始まり、スペイン植民地時代からドイツ植民地時代を経て、日本統治時代(1914〜1944年)を迎えた。日本統治時代には、パラオに南洋群島(ミクロネシア地域)全体を管轄する南洋庁本庁が設置された。そのため、現在でも日本時代の影響を色濃く残している。

第2次世界大戦後、1981年に自治政府発足までは、アメリカの信託統治となった。その後、紆余曲折はあったが、1994年10月1日に独立した。正式国名は“パラオ共和国”だが、現地では“ベラウ”とも言われている。しかし、今尚、アメリカとの関係は深いものがあり、米国との間で自由連合協定が結ばれている。この協定は、内政・外交権はパラオが、安全保障はアメリカ合衆国が担うものとし、アメリカ軍が駐留し、その見返りとして米国が財政援助をするというものである。また、ビザなして米国で働いたり、留学したりすることができる特典もある。そのため、多くのパラオ人がグアムやハワイや米国本土で働いている。

現在のパラオは、総人口は約2万人、その内訳はパラオ人1万3千人、出稼ぎフィリピン人5千人、その他の中国人や米国人や日本人で2千人と言われている。

パラオへはコンチネンタル航空が毎日就航している。日本からの直行便ではなく、グアムで乗り継ぎである。新しい機材(飛行機)を常に投入することを「売り」にしているコンチネンタル航空、その言葉通り機材は新しく気持ちがいい。とにかく、乗っていて安心感があるのが良い。成田からグアムへ到着後、乗り継ぎ(トランジット)だが、一度グアムへ入国手続きをし、すぐに出国手続きをしなくてはならない。2001年の「9.11NYテロ」以降、乗り継ぎと言えども検査は厳しくなった。グアムからパラオまでの飛行時間は約2時間だが、乗り継ぎや待ち時間諸々で、パラオ到着は夜の8時頃になる。因みに、日本とパラオとでは時差はない。これは非常に助かる、身体が楽だ。位置関係は神戸の真下(南方)約3000kmの地点にある。


パラオをこよなく愛する菊池さんパラオ空港へ到着すると、「ロック・アイランド・ツアー」という現地会社の菊池さんが迎えに来てくれていた。この会社はパラオのオプショナルツアーやダイビングツアーを催行している会社である。それ故、そこのボスである菊池さんは現地情報には詳しい。

PMTからベラウツアー(パラオ専門の旅行社)を通して手配されていた。菊池さんとはこの時初めて会った。サイパンの友人からKFCについては以前から聞いているとのことで、我々のことはよくご存知だった。何と、彼とは共通の友人(サイパンのチャモロ人)がいたのである。


パラオ滞在中、各所へのアポイントメントから、島の案内、島情報まで細々と本当にお世話になった。結果的には、菊池さんのお陰で非常に効率よく仕事をこなすことができたのである。菊池さんはパラオ在住20年になるが、その前はサイパンにいた事もあり、何となくKFCと同じ匂いを持つ人だ。菊池さんの言動から「パラオを愛する日本人のひとり」ということがヒシヒシと感じ取れた。

パラオの事は何でも知っていて、とても頼りになる、まさに“生き字引”である。空港から車で30〜40分でパラオ・パシフィック・リゾートホテル(PPR)へチェックインした。



■4月22日(日)現地調査開始
試泳する大西先ず、早朝にPPRのプライベートビーチをチェックした。南の島パラオでは、そこら中に“海”があるといえども、“泳げる”ビーチは思いのほか少ないことが分かった。“泳げる”ビーチを持つホテルは、ここPPRひとつだけであることも分かった。

ここの海はきれいなビーチで、この時季は波もなく、鏡のように穏やかだ。透明度に関しては、ロタ島やテニアン島のようにスコーンと抜けて前方までは見えるということはないが、綺麗な海だ。西風の吹かない12月から4月末まで、この辺りの海は鏡のように静かだという。


20mほど沖に出ると、海底にはシャコ貝がごろごろ転がっている。小さいものは握り拳くらいで、大きいものは1mくらいもある。水深は1〜2mくらいだ。こんな大きなシャコ貝を見たのは初めてである。

午前9時から菊池さんと松尾さんと共にパラオ島内のチェックへ出かけることになっていた。松尾さんは「サムズ・ツアー」でダイビングのインストラクターをしていて、ロタ島のセレナで以前働いていたチナミちゃんに紹介してもらった。島を回りながら、特に海情報に関するアドバイスをしてもらう。


モナコのカジノのような国会議事堂パラオは大小586島からなっているが、人が住んでいるのは9島のみで、大多数は無人島である。パラオ諸島最大の島はバベルダオブ島で、ミクロネシアではグアム島に次ぐ大きさである。昨年、コロール島からこの島のマルキョク州に首都機能が遷都され、立派な国会議事堂の建物だけがポツンと建てられている。台湾からの資金援助で建設されたそうだ。地元の人はここを「キャピタル」と呼んでいる。この建物、以前、モナコで見たな有名な王室カジノのように見える。しかし、未だ、周りには建物ひとつない。



スーパーマーケット、ホテル、学校、スポーツ施設、病院などの主要施設があり、人口が最も多いのがコロール島である。この島がパラオ経済の中心である。その次に人口が多いのがアラカベサン島とマラカル島で、これらの4島は橋や道路で繋がっている。 

先ず、PPRのあるアラカベサン島を出発し、コロール島、バベルダオブ島、マラカル島を見てまわった。コロール島は経済の中心地であるにも係わらず路面は「これでも舗装路?」と疑ってしなうほど悪い。表面がボコボコしている。ロードレーサーを走らせるには相当の無理がある。


バベルダオブ島のピカピカの舗装道路バベルダオブ島は、米国資本が入って道路は完全舗装されおり、路面は良好で適度なアップダウンがあり、自転車乗りなら走ってみたくなるような、バイクには「持って来い」の道路だ。未だ、一部工事中の箇所もあるが、距離は島一周道路で約90kmになる予定とか。今年の6月に全面開通ということだ。

スイムをPPRのビーチで行ない、バベルダオブ島でバイク、マラカル島をランが理想のコースだが、それには路面が悪いコロール島の繁華街をバイクで必ず通ることになる。歩くにもちょっと大変な程、路面が悪い。路面の良いバベルダオブ島だけでレースをするとなると、適当な宿泊施設がなく、何よりも泳ぐ場所がない。PPRのきれいなビーチは捨てがたい。しかし、コロールの街中の道路は使えない・・と来ている。何事も思い通りには行かないもの、これが人生というもである。

昼過ぎには菊池さんたちと現地調査から帰ってきた。この調査で大雑把にはパラオ主要4島の状況が掴めた。午後3時からレンタカーを借りた。パラオはシートベルトをしなくても良い。というか“あんなに危ないものはない”という理由から国を挙げて“シートベルトをしない”政策を採っていると云う。おもしろい国である。


美しい景観を持つイワヤマベイの桟橋その夜は“ジャイブ”という名のレストランで三澤さんと一緒に食事をした。三澤さんはパラオ現地情報入手のため、「ロタ・リゾート」のスタッフ浅見さんから紹介してもらった。ジャイブはオープン・テラスで足元まで海が迫っている。夕陽が最高に美しい店だ。三澤さんはJICA(国際協力機構)でパラオに来られて、パラオが気に入り、その後もパラオの病院でコンピューター関係の仕事をされている。

ジャイブで食事をしていても感じたことだが、レストランでもホテルでもパラオ人の女性が多く働いている。マリアナでは政府機関等でチャモロ人女性が働くのは時々見るが、民間で働くことはあまりない。聞くと、“パラオ女性は働き者で、女性の力が強く、女性を見方につけると、物事が上手くいく”社会だそうである。


調べてみても、パラオの村々は従来母系一族によって守られ、男性と女性の役割は厳密に定められていたそうだ。女性議会が島の統一、金銭の管理や議長の選択に関しての助言役も担っていたそうだ。男性は多くの時間を“アバイ”といわれる集会場ですごし、男性の領域である海へ魚を捕獲しに行く、その為のカヌーの作り方を学ぶ、村同士の争いの為、戦いの訓練等などという役割だったそうだ。何となく“女性の力が強い”という説に納得できる感じだ。

パラオに現存する唯一のアバイそんなに一生懸命働く、頼もしいウエイトレスも、ふっと見るとほっぺたが片方膨らんでいる。“ビンロージュ”だ。決して態度は悪くないが、接客していてもビンロージュを噛んでいる。この人達、島の人達はビンロージュが片時も手放せないらしい。

こんなに働き者なのにパラオ人の最低賃金は時給$2.50とマリアナのチャモロ人の$8.00と比べるとかなり低い。外国からの雇用労働者であるフィリピン人や中国人はもちろんこれ以下で$1.00位という。因みに、北マリアナでは出稼ぎ労働者は$3.05ドルである。

“あっ”と声をあげる間もなく、ジャイブのテラスのすぐ下を1mほどの大きさのエイが1匹通り過ぎた。水深30cmほどしかないのに。“おーっ”と思っていると、今度は最初の1匹が別の2匹を引き連れて戻って来て、去って行った。あっと云う間の出来事だったが、ちょっとした感動だ。従業員たちも出て来て騒いでいた。ダイバー憧れの島と言われる所以がわかったような気がした。


人懐っこいパラオの子供たちこの日一日島を観て回った限りでは、頭の中ではすでにトライアスロンは「不可能」という結論が出ていた。こんなに魅力的な海と自然、親日的で人懐っこそうな島の人々、それに何よりもここに住む人たちからのトライアスロンを切望する熱意を感じているだけに、明日のパラオ・オリンピック委員会でのミーティングで「不可能」と伝えるのは気が重い。

駐日パラオ大使館からも菊池さんからも「パラオではトライアスロンというイベントは待ちに待ったイベントです。何とか開催して欲しい。」と言われている。だけど、イメージが湧いてこない。


食事の後、帰り際に、三澤さんからKBブリッジ下の入江がスイムに使えるかもしれないとアドバイスをもらった。そこは以前からローカル大会のスイムコースに使用されている入江だと言う。松尾さんからも同じことを聞いていた。KBブリッジはコロール島とバベルダオブ島を繋ぐ橋で、日本のODA援助によって2002年1月に完成した。鹿島建設が施工した美しい形をした橋だ。



■4月23日(月)オリンピック委員会との初ミーティング
穏やかなトライアスロンのスイムコース今日はいよいよ、午前10時からパラオ政府機関であるオリンピック委員会とのミーティングがある。このミーティングは駐日パラオ大使館の手配で出発前からセットアップされていたものだ。一縷の望みをかけて、ミーティングまでにKBブリッジ下の入江をチェックしておくことにした。ここが使えそうなら、コースを作ることが可能だ。

橋の下の水路は流れが速いが、入江は穏やかな海だ。波もなく、湖のような海域だ。透明度はロタやテニアンとまではいかないが、十分にきれいな海だ。これで行くことに決めた。何とかコースの青写真が頭の中で出来上がり、“ほっ”とした。

“ほっ”とした所で、KBブリッジ下の“ビューティフィケーション・パーク”で朝ごはん用にとスーパーマーケットで買った“弁当”を食べた。ちなみにパラオ語で弁当は“ベントー”と言う。そして、中身もご飯にごま塩、卵料理、パラオ風バーベキュー、もしくは、スパム、ハム等だった。それに“きゅうりのQちゃん”がついている。パラオ人の一般的な朝食だそうだ。

パラオ語には日本語がそのまま使われているものが多い。例えば選挙は“センキョ”、選挙のポスターにも“センキョ”と書かれているらしい。大統領は“ダイトウリョー”、ガソリンは“アブラ”、電気は“デンキ”、電柱は“デンキバシラ”、美味しいは“アジダイジョーブ”、大丈夫は“ダイジョーブ”、うどんは“ウドン”、インスタントラーメンは“サッポロイチバン”などと言う。

パラオ人の名前にしても、日系人以外の純粋のパラオ人でも、日本名が多い。第4代パラオ大統領は“ナカムラクニオ”だし、その兄の現駐日パラオ大使は“ナカムラ・ダイジロウ”という。他にも“テツオ”、“アケミ”、“ヒロシ”、“タロウ”、“ケイコ”、“ヨシコ”etc...と数え上げれば切がない。姓も“サトウ”、“タナカ”、“カトウ”、“ヤマモト”などもあり、中には“○○さん”の“さん”までつけた、“ノギサン”、“タケダサン”、それに“コマサ”“オオマサ”という人もいる。なんだか日本人としてはうれしいような・・笑えるような...。また、日本時代にはカカオやコーヒーも作られていたそうで、当時は明治製菓のチョコレートにはパラオ産のカカオが使われていたそうだ。


左がバクライさん、右はシマさん腹ごしらえも済み、菊池さんと合流して一緒にオリンピック委員会のオフィスへ行った。ここの代表のバクライさんと、ここで働く日本人女性のシマさんが迎えてくれた。パラオ人のバクライさんは、彼女自身、スポーツウーマンで、現在はカヤックをやっているそうだ。彼女も“パラオでのトライアスロン”計画に大変意欲的だ。

シマさんは、以前ダイビングのインストラクターをされていて、現在はスイムコーチをされている。バクライさんや他のパラオ人スタッフと一緒にパラオの人たち(主に子供たち)に水泳を指導されている。“パラオを愛する日本人のひとり”として、パラオのスポーツ育成に大きく貢献されている。


つい先ほど完成したばかりの青写真のコースを話した。現時点でのパラオでは、このコースしかあり得ないと話した。バクライさんもシマさんも大変喜んでくれ、政府組織であるオリンピック委員会を中心にやろうという事になった。もちろん、パラオ政府は全面的に協力することになっているということだった。その場で、季節風の状態、海の状況、旅行・ホテルのシーズナリティーetc...いろいろ話し合った結果、日にちは12月15日(土)にトライアスロン大会を、翌12月16日(日)にPPRビーチでオーシャンスイム大会を開催するということに決定した。これだと両方の大会に参加することも可能だ。

(*後日記載:この時点では、帰国後にオーシャンスイムのコースを変更することになろうとは夢想だにしていなかった。)

あれよ、あれよ、という間に日程まで決定し、早速、明日、パラオ・トライアスロン協会とパラオ・スイム協会の会長も呼んで、更に具体的なミーティングをしようということなった。皆の熱意がヒシヒシと感じられた。


お気に入りのスパニッシュ・オムレツ“ホッ”としたところで、菊池さんおすすめレストラン「ロック・アイランド・カフェ」で、昼食を摂ることにした。ここはアメリカンタイプのレストランで、安く、おいしく、ボリューム満点で、ローカルもたくさん来ていた。

スパニッシュ・オムレツを食べた。カリカリに焼いたトーストとハッシュドブラウンが付いている。シンプルで美味い。このカリカリトーストの食感も絶妙の味、癖になる。値段は6ドルとリーズナブルだった。パラオでのKFCおすすめレストラン“第1号”となった。かなり気に入ったので、翌日の昼と夜、その次の日の朝と通い詰めてしまった。



パラオ観光局でのミーティングの様子午後からパラオ観光局に行った。ここでも駐日パラオ大使から前もって連絡が入っており、観光局長ダーリンさんやその他マーケティング部門の人たちと話をした。マーケティング部門のマネージャーも“モリシタ・ユミエ”というパラオ人で、彼女もとても上手な日本語を話し、皆“トライアスロン&オーシャンスイム”開催を歓迎していた。

その後、駐パラオ日本大使館へ挨拶に行った。着任間もない駐パラオ大使の“中村”大使(日本人です)とお会いすることができた。中村大使にも我々KFCのパラオへの貢献を歓迎して頂いた。



夜はコロール島の繁華街を散策がてら、韓国料理“キングス”へ行った。韓国バーベキューのセットプレートが$6.00で、おいしく、腹いっぱいになった。コロールの繁華街は雑多な雰囲気で、どこか東南アジアの匂いがするおもしろい街だ。



■4月24日(火)詰め一日
静かなイワヤマベイの桟橋午前中、菊池さんがアレンジしてくれたボートに乗って、海に浮ぶロックアイランドやトライアスロンに使うKBブリッジ下の入江をチェックしながら海から見るパラオクルージングと洒落込むことになっていた。この日はようやく気持ちに余裕が生まれていた。

午前9:00にPPRの桟橋からボートで出発した。海から見るパラオはまた一段ときれいだった。全く波のない鏡のような海面が続いている。この時期の海は本当に穏やかだという。ロックアイランドといわれるマッシュルーム型の島が点在し、陸地とはまた違った魅力に溢れている。

途中、パラオが誇るロックアイランドの景勝地「イワヤマベイ(通称ニッコウベイ)」に立ち寄った。ここは菊池さんイチオシのポイントと話す。ここは四方八方をロックアイランドに囲まれた広い湾で、そこへ行くにはボート1隻が通れる程度の幅の水路が2本あるだけだった。だから、年間通して全く波がないと言う。外洋がどんなに荒れようともこの湾の海面は鏡のように静かだと言う。不思議な湾だ。それに、海の色もコバルトブルーでとても美しい。ここで過去に何度かオーシャンスイムのローカル大会が開催されたことがあると言う。当然だろうと思った。


イワヤマベイの静かな海面通称名「ニッコウベイ」という名前の由来は、以前にこの湾を望む高台に日航ホテルが建っていたからだと言う。また、正式名「イワヤマベイ」というのは、周りを岩山(ロックアイランド)に囲まれている湾だからである。こんな所にも日本語が現地語として生きている。


(*後日記載:12月開催のパラオ・レインボー・スイム大会の会場を当初予定していたPPRビーチからこのイワヤマベイに変更した。その理油は、帰国後も、このイワヤマベイのロックアイランドに囲まれたパラオ的な雰囲気や鏡のようにフラットな海面、それにコバルトブルーの海が脳裏に焼き付いて離れなかった。ここの方がよりスイマーに喜んでもらえると感じた。だから、急遽、この直感に従って募集開始の直前ギリギリの時点で変更した。)


昼前にホテルへ戻り、チェックアウトを済ませ、次のホテルへ移動した。次のホテルはパラオ・ロイヤル・リゾート(PRR)だ。2005年にニッコー・ホテルズ・インターナショナル45番目のチェーンホテルとしてオープンした。オープン仕立ということもあり客室はセンスが良く、清潔感がある。


パラオが誇る景観ロックアイランド午後2時からオリンピック委員会へ2度目のミーティングに行った。バクライさん、シマさんに加えて、トライアスロン協会のティノとスイム協会のビルとが来ており、もちろん彼らも一緒に“パラオ・トライアスロン&オーシャンスイム”を立ち上げる事となった。近い将来、パラオの人々だけで大会運営が全てできるようにノウハウを順次移管していきたいと考えている。

この後すぐに、菊池さんのアレンジで、副大統領のイリアス・カムセク・チン氏と会うことができた。彼も大歓迎してくれ、交通規制など競技に必要な政府側の全面協力を約束してくれた。因みに、パラオ警察の最高責任者は副大統領という。



ストリーボードと陽気な囚人菊池さんがコロール警察署に隣接する刑務所に連れて行ってくれた。刑務所の中には、受刑者の作品である“ストーリーボード”と“ウドウド”を展示・販売しているギフトショップがある。パラオ一の品揃えだ。ストーリーボードはパラオならではの民芸品で、パラオの伝説や神話をマホガニーなどの硬質の木材に彫りこんだものである。手彫りなので、すべて1点ものだ。とても緻密に彫られた芸術作品だ。値段は$300〜$5000くらいと決して安くはない。

ウドウドは、かつてパラオの両替システムとして使われていたマネービーズだ。地元の女性は老いも若きも、ウドウドネックレスをつけているのをよく見る。本物のウドウドは価格をつけられないほど高価なものらしい。

これらの作品を作ったのも受刑者、そして、ギフトショップのフレンドリーな店員も現役のバリバリの受刑者だ。あまりのフレンドリーさに、聞きたいが、やっぱり聞けなかった、“何をしてしまったの...?”と。彼ら受刑者達の名前入りのその作品は正にアートで、彼らは熟練したアーティストだ。また、ここの模範囚は朝から夕方まで自由に街に出掛けてもよいということだ。シートベルトの件にしろ、この件にしろ、おもしろい国だ。


子供を指導するシマさんシマさんが「毎日夕方4時からプールで、子供達に水泳を教えているので、見に来て!」と言ってくれていたので、見学に行った。海に隣接した所にあり、25mの競技用屋外プールで、小さい子供から大人まで熱心に水泳を習っていた。コーチはシマさんの他にスイム協会のビルも指導に来ていた。シマさんは上級(選手)クラスを指導していた。空いてるレーンで少し泳がせてもらった。やはり屋外プールは気持ちがいい。

雨が降れば直に中断してしまう日本のプールと違って、大きなスコールが来ても、皆、平気で泳いでいる。逞しい。子供たちはこうでなっくっちゃいけない。日本ほど至れり尽くせりの過保護なプールはどこにもないと常々思っている。

シマさんは「まだまだですよ」と謙遜されていたが、上級クラスの子供達はかなりしっかりした泳ぎで、力強く、速い。夕方6時まで2時間ビッチリ練習している。あなどれないぞ、パラオのスイマー。パラオの子供たちを熱心にコーチしているシマさんの姿を見ていると、同じ日本人として誇りに感じる。

そのプールの横のグランドでは野球をしていたり、町中ではバレーボールやバスケットボールの試合をやっていたりと、パラオはなかなかスポーツが盛んな島だ。



■4月25日(水)海岸通りのひなびたレストラン
ガラスマオの滝日程では4月26日(木)帰国だが、グアム経由で日本へ帰国する便は一日一便で、真夜中(早朝)に出発して、翌朝に日本到着となる。実質、今日がパラオで過ごす最終日となる。もう少し詰めの話をする為、朝一番でバクライさんとシマさんとオリンピック委員会のオフィスで10分間ほどのピンポイント・ミーティングをした。

その後、“ガラスマオの滝”を見に行った。パラオ本島とも呼ばれるバベルダオブ島北部にあり、パラオ最高峰であるゲレチェルチュース山の近くにある。パラオ最大の美しい滝だ。入口から30分ほどジャングルの中をトレッキングしなければならない。途中、裸足になって小川の中をバシャバシャ歩かなくてはいけない。透明な澄んだ水で、冷んやりと気持ちが良い。その滝は水がカーテンの様に落ちてきている珍しい滝だ。滝壺まで近づいて水を浴びたり、滝の裏に回り込んだりすることもできる。

この滝に続くトレッキングコースの入口には小屋があって、政府の人懐っこいスタッフが入場料を徴収している。一人につき5ドルだか、水を飲ませてくれたり、その辺りの情報を教えてくれたり、道を尋ねることもできて、初めて訪れても安心である。


民家のようなレストランの建物初日に菊池さんたちと島を回っている時、通りすがりにチラッと見た時から“これはイケル”と感じ、ずっと気になっていたレストランがあった。民家のようで、よく見ないとレストランとは分からない。

建物の裏手には海に張り出したオープン・テラスを持つ家庭的な雰囲気のする小さなレストランだ。店名は「OKEMii DELi」と云う。

バベルダオブ島の海辺にあるマルキョク村のひなびた海岸通りにある。その海岸通りは人通りもなく、車もほとんど走っていない。この村の人がそうそう食べに来るとは思えない。きっと、キャピタルで働いている人が昼飯を食べにくるのだろう。


ボリュームのあるショートリブステーキとスパゲッティ滝の帰りにそこへ昼飯を食べに行った、というよりも、そこで昼飯を食べるために滝で時間を潰したようなものである。店内と裏手のオープン・テラスにテーブル席がある。迷わず海に突き出たテラスの席を選んだ。そこはテーブル席が3つしかなかった。目の前の青い海が太陽で輝いて見える。

メニューを見せてもらい、料理を注文した。一品5ドルくらいでピザ、ステーキ、スパゲティ等々そこそこのものを食べることができる。ショートリブ・ステーキとミートソース・スパゲティを注文した。ステーキを一切れ口に入れた。「ビンゴ!」であった。美味い!
この空間とこの料理をこの値段!で味わえるなんて・・・。


海に突き出た心地よいテラスすぐ横に生えている大きな樹がテラスに影を作っているので涼しい。海風も心地よい。終日ここでノンビリしておきたいような気分にさせてくれるレストランだ。これが本当の贅沢というものだろう。パラオでのKFCおすすめレストラン“第2号”となった。でも、ここは誰にも言わずに内緒にしておきたい気分だ。








夕方、ホテルへ戻り、PRRのプールで泳いで、プールサイドでリラックスした。その後、ブッフェの夕食を摂った。午後11時にチェックアウトをして、空港へ向かった。そんなに混んではいないが、この便しかないので、けっこう乗客がいるような気もする。マリアナと違って日本人は数えるほどで、白人が多い。飛行機に乗り込むとすぐに寝た。グアムでトランジットだが、やっぱり来た時と同じで、グアムに入国してすぐに出国する。この時間帯は本当に眠い...。そして、グアムから飛行機に乗り込み、起きたら成田だった。



★大会募集開始は7月を予定しています。ぜひ、参加して下さい。

【現地調査協力】
コンチネンタル航空、ベラウツアー、ロックアイランドツアー、パラオパシフィックリゾート(PPR)、パラオロイヤルリゾート(PRR)、三澤敏和氏、松尾悟氏
、駐日パラオ大使館、パシフィックミクロネシアツアーズ(PMT/JTBグループ)


                      2007年5月15日  KFC 記